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行政・環境事件

川崎公害裁判

川崎公害裁判
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川崎は、昭和30年代から、国の政策に基づいて臨海部に石油化学コンビナートが建設され、それとともに東京電力による火力発電所の設置、旧来からある日本鋼管製鉄所も稼働していた。

こうした臨海部の工場群からの大気汚染物質の排出に加えて、昭和40年代以降のモータリゼーションによる自動車交通量の急増が加わり、川崎区・幸区を中心として激甚な大気汚染が出現した。

こうした大気汚染による被害については、四日市公害裁判を契機として公害健康被害補償法による補償がなされていたものの、それは、気管支ぜん息などの公害病によって住民が被る被害のごく一部を補償するに過ぎないものであった。また、昭和50年代に至ると経団連を中心とする財界は、「公害は終わった」という大合唱をおこない、昭和53年のNO2の環境基準の大幅緩和、公害指定地域解除の動きなどが盛んになった。こうした中で、川崎の公害患者が、臨海部の固定発生源14社、および幹線道路設置者(国・首都高)に対して、損害賠償と、大気汚染の環境基準以下への低減を求めて訴訟を提起した。1次提訴は1982年3月、横浜地裁川崎支部である。その後、4次まで追加提訴がなされて、原告は約400名に達した。

争点は、固定発生源からの汚染物質が原告らに到達していたか、またその寄与の程度がどの程度か?NO2・SPMなどの汚染物質に曝露したことと気管支ぜん息などの発症との間に因果関係が認められるか?臨海部に展開する企業群の間に共同不法行為が成立するか?道路の管理に瑕疵があるか?等、多岐にわたるものであった。

提訴後7年余、ほぼ毎月1日全1日を使っての裁判を重ねたうえで、1994年1月25日に、第1次訴訟について判決が下される。被告企業14社には損害賠償で勝訴するも、汚染物質の排出差し止めと道路公害についての請求は認められなかった。1審判決を受け、即日、大交渉団を組織して東京電力、日本鋼管、JR(発電所を操業していた)、東燃石油化学、日本石油化学などと交渉を持つ。なかなか譲らない被告との泊まり込みも辞さない姿勢の交渉団との緊迫したやりとりが続いたものの、最終的には、早期解決をめざすという確認書を各社から取り付けるに至った。

その後、舞台は、東京高等裁判所と地裁川崎支部に分かれることとなったが、被告企業14社とは、96年12月25日に解決に至る。解決式は川崎市内のホテルの会場を使い、被告企業の役員が整列して、原告に対して謝罪の意思を表するという形で行われた。和解の骨子は解決金31億円の支払い、「被告会社は、今後とも公害防止対策に努力する」というものであった。

その後、地裁と高裁で、道路公害に関する訴訟が進められた。工場からの汚染物質の排出という従来型の大気汚染の裁判から、自動車排ガス汚染という現代型の公害を裁く本格的な裁判へと裁判の課題も変わっていった。

98年8月5日には、横浜地裁川崎支部において、2次~4次訴訟の一審判決が下された。この判決は、川崎区・幸区内の道路網が全体として、固定発生源からの汚染と相まって地域の大気を汚染し、それが原告らの気管支ぜん息等の原因となっていることを認めたものであり、その範囲が幹線道路沿道50mに限定されているとはいえ、画期的な内容であった。

この判決は、既に2年前・96年に提訴されていた東京大気汚染裁判を大きく励ますものであった。

99年に入ってからは、原告・弁護団と国・首都高との交渉が進められ、5月20日に、国・首都高との和解が成立した。その骨子は、(1)国が本件地域の自動車走行量を抑制し、大気汚染の軽減を図る。(2)産業道路の車線削減を含む交通量の抑制、及び緑地帯の設置。(3)自動車排ガス中のNO2・SPM、そして問題が指摘されているPM2.5の調査を行う。(4)ロードプライシングを実施する等であり、(5)こうした施策を実施に移すために、国が原告らと継続的に連絡会を持つというものであった。

幾多の問題をはらむものであった。

最終的な解決に至るまで17年という長い年月を要したが、成果は後世に誇れるものであったといえよう。

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